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歌川広重
東海道五十三次
(保永堂版)

徳川家康が東海道を制定してから400年。
江戸と京都を結ぶ東海道は、
参勤交代の大名行列や旅人が往来し
53の宿場とともに発達しておりました。

作品をクリックくださるとプチ解説をご覧いただけます。

1、日本橋 朝之景

1、日本橋 朝之景

日本橋の早朝の風景から東海道五十五次ははじまりました。 日本橋のアールを2面向きに捉えています。それまでは日本橋の風景を描く際、橋を横向きにとらえて背後に江戸城を望み、遠景に富士山を見せるのが主流でした。 真っ青な澄んだ空の下、木戸がぱ~んと開かれ、目に飛び込んでくるのは正面向きの日本橋で、橋の向こうからは大名行列が姿を現します。 画面手前にいる魚屋たちは大名行列に遠慮したような素振りに見えますね。 画面右手で遊ぶ二匹の犬のチャーミングさ。大名行列と犬のほっこり感、緊張と緩和の絶妙なバランスが魅力です。

2、品川 日之出

2、品川 日之出

海と空が大解放に広がる美しい風景です。 東京湾が現在のように埋め立てられていなかった江戸時代、品川はご覧のように海に面した磯の香りがする宿場でした。ここからしばらくはオーションビューの海辺の旅を楽しみましょう。西に向かう大名行列が品川宿に入り、行列の先頭は家並みに隠れ最後尾が姿を見せています。 木製の標柱(梯示杭)は宿の入り口に入りましたよ、との目印になります。 梯示杭の傍らには、行列に道を譲って見送る旅人が群れになっています。 「下に~下に」と大名行列に出会うと庶民は土下座をするイメージですが、それは徳川将軍家、尾張、紀州の御三家のみに限られていました。(通常の行列の場合は、今図のように道の端に寄ればよいのです。) 向かいに立つ茶店の女も、日常のゆっくりとした風情を見せておりますね。

3、川崎 六郷渡舟

3、川崎 六郷渡舟

東海道中最初の川が見えて参りました。玉川(たまがわ)です。 街道筋では六郷の里で六郷川と言い多摩川とも言いました。 その昔、長さ109間の大橋がかけられ武蔵国三大橋の一つであり洪水で流れてからは渡し舟の対応になりました。 遠くに富士山が見えて参りましたね。​品川方面から川崎を望んでいる構図です。 画面の真ん中から伸びた私船の乗客と船頭が、次に対岸の人々に目が向き、運賃を払う男へと、奥に奥にと視線が導かれて参ります。 船上では男女問わずにくつろいだ様子、よいお天気でよかったですね。

4、神奈川 台之景

4、神奈川 台之景

画面右手の路上をご覧下さいませ。茶店の女性はお客様を引き込むのに必死の様子です。強く手を引かれ、まるで綱引きです。いや遠慮するよと言わんばかりに前のめりになっている旅人。​女のあまりの勢いと願わくば回避したい男性の姿はほほえましいですね。その下では、親子連れの巡礼と、厨子を背負った六部(ろくぶ)がひたすら坂を上って行きます。さて、巡礼とは霊場を参詣して回る旅人のことでこの図は父と娘の二人連れです。仏像を入れた厨子を背負い、六部笠(紺の木綿で包んだ笠)をかぶっているのが巡礼者の特徴です。

5、保土ヶ谷 新町橋

5、保土ヶ谷 新町橋

橋の手前の帷子(かたびら)町と、向かい岸の神戸(ごうど)町の間に帷子川は流れていました。 そこに架けられた橋を新町橋(または帷子橋)です。 深編笠をかぶった男性は、尺八を袋に入れて腰に差した虚無僧、駕籠の一行が橋を渡り、宿場の入り口にさしかかりました。 橋を渡りきると、二八そば屋が店を構えています。​この二八そば屋は実在しておりました。 街道の両脇に並ぶ家並みの間から、旅人が姿を現しましたよ。 画面左手には宿場の賑わいとは対照的な田園風景が広がりました。 農夫とその子供が農村の雰囲気を盛り上げています。町人の日常の風景と旅人の旅の風景が同居した作品です。

6、戸塚 元町別道

6、戸塚 元町別道

画面右に架かる橋は大橋です。下を流れるのは柏尾川です。画面中ほどの青い石柱に「左りかまくら道」の文字が見えますが、保土谷宿を後にして、ここを直進し​橋を渡ると戸塚宿、川沿いに左へ進むと鎌倉に参りますよ。画面左の「こめや」は橋の手前の吉田町にある旅籠の屋号で、この旅籠は実在していました。 軒先には「大山講中」などと書かれた木札が下がっているのをご覧になれますか。「講」は、共通の信仰をもつ人たちのサークルを言いました。(「大山講中」は現在の阿夫利神社に詣でる大山講の指定休憩所だったことのしるしです。) ひらりと馬を降りる男。表情は笠に隠れて見えません。左側には愛想よくお出迎えの茶店の女が、馬の右には馬子が、その右には旅の女が笠をとろうとし、シンメトリーに4人を配しました。橋の上の老人は​まるでエキストラのようですね。

7、藤沢 遊行寺

7、藤沢 遊行寺

境川の流れに橋が架かり、対岸は戸塚宿側で、こちら側が藤沢宿にあたります。画面上部の中央には、江戸から京都へ遠景の山中に見える、時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)の伽藍をが見えて参りました。川沿いに右に延びているのは、江ノ島弁財天の参道で江ノ島道と呼ばれていました。当時江戸の男たちは夏の大山山詣を楽しみにしていました。気の合う仲間たちと山に登り、帰りに江ノ島に立ち寄って海の景色を楽しむコースが魅力的だったようです。大鋸橋を渡って4人の座頭達が通り抜けようとしている鳥居は、江ノ島弁財天への入り口に向かうところです。彼ら盲人を座頭といい、音楽やあんまを生業としていました。江ノ島の弁財天は、音楽や福の神で杉山検校が弁財天の霊験によって鍼術を会得したとの逸話から、盲人の信仰を集め賑わいました。

8、平塚 縄手道

8、平塚 縄手道

平塚宿の西端を示す榜示杭が立っています。田の中を蛇行しながら大磯へと向かう道です。ジグザグ道は広重が好んだ発想であったと思われています。右手の角ばった山は信仰の山として有名な大山です。高麗山と大山の間からは、雪をかぶった富士山が顔をのぞかせます。​ 街道では前傾体制で平塚宿へ急ぐ飛脚と、大磯宿への帰り客を見つけられず空駕籠を担いて帰り道の駕籠かきがすれ違う瞬間を描きました。旅人の一期一会、すれ違う様子を描くことを広重は好んでいました。飛脚の姿を松から見え隠れさせることで動感を表現しています。

10、小田原 酒匂川

10、小田原 酒匂川

小さな人々が川を渡る図、酒匂川の渡し場です。 小田原宿に入るにはザブザブと川を渡らなければなりませんでした。 水かさの少ない10月から2月のみ仮橋が架かりましたが、通常は徒行渡しといって、川越人足が旅人を輦台に乗せて担いだり、肩車をして渡していきました。 川を渡ると草のおい茂る河原が広がり、その向こうに小田原城と城下の街並みの屋根、そして遠景が箱根の山々です。 小田原のあとは厳しい箱根の山越えが待っています。

9、大磯 虎ケ雨

9、大磯 虎ケ雨

広重お得意の雨の景です。​大磯を最初の雨の図に選んだのはなぜででょう。「虎ケ雨」とは、陰暦五月二十八日に降る雨を言います。「曽我物語」曽我兄弟の仇討で知られる曽我十郎がこの日に討死し、愛人の虎御前の涙が雨になって降ると言い伝えられてきました。この虎御前は大磯の遊女だったと伝えられています。虎御前の物語を知っている人々にとって、大磯は雨の図にベストマッチな宿場だったのです。大磯宿の東端で、棒鼻を示す榜示杭が立ち、人馬が雨に降られながら西へ西へと向かっています。広重は色彩を控えめにした雨の風景に​まるで輝きを増す青く光る海を描きたかったのでしょう。なんと美しい風景なのでしょう。

12、三島 朝霧

12、三島 朝霧

広重は今図で早朝の薄明りの中、朝霧立ち込める宿場を旅立つ人を描きました。三島明神(現在の三島大社)のものです。景はシルエットとして表しています。シルエット表現は丸山応挙によって始められた円山四条派の画家によって​工夫された技法です。手前の人物は三島宿を朝一番で発って箱根越えに向かうところです。画面左の3人は次の沼津宿を指して歩いてゆきます。3人は顔を隠しており、​押し黙った感じ。朝が早かったのでしょうか。うなだれてこっくりこっくりと居眠りしている男性。馬の背の両端につづらを乗せ、その上に座る乗り方は乗掛(のりかけ)と言いました。背景の描写に首版を用いず、シルエットに幾種類もの色を配し前後感、いわばレイヤーのような​表現を試みた、当時の手法としては斬新なものでした。

11、箱根 湖水図

11、箱根 湖水図

東海道の旅の最大の難所、箱根越えの場面に参りました。 画面の中央には岩山がそびえ立ち、山間の道を西に向かって下ってゆく大名行列が急な傾斜を象徴しています。左手は芦ノ湖になります。左図の下から湖、低い山々と続き、最遠景の白い富士山にたどり着く構成です。​湖岸には箱根権現らしき社殿も見えて参りました 画中の大名行列を、広重が加わった「八朔御馬献上」と、描写は昇亭北寿の風景画の影響と​考えられています。

13、沼津 黄昏図

13、沼津 黄昏図

月を待つ 人皆ゆるく 歩きけり(高浜虚子) ​満月が辺りを照らす深遠な美しい図です。 狩野川に沿って逆「く」の字に曲がる街道を進み、三枚橋を越えれば沼津宿の東の入り口です. 天狗の面を背負った男は金毘羅参りの参拝客。金毘羅行人と呼ばれ、白木綿の襦袢を着て、股引や足袢、足袋も白で統一しているのが特徴です。信者から米や賽銭を集めて、壱岐(現香川県)の金毘羅大権現に参詣し、到着すると背負っていた​天狗の面を奉納しました。右の二人連れは比丘尼(女性の僧侶であり尼の姿で諸国を歩いていた女芸人)とその弟子になります。 熊野信仰を広めるために諸国を巡った熊野比丘尼のように、絵解きをしたり歌を歌うものが現れ、芸人としての性格を強めてゆきました。柄杓を持っているのは、​布施を受けるための物と言われています。

14、原 朝之富士

14、原 朝之富士

ピンク色の一文字(てっぺんの配色)は朝焼けを表しました。 広重は今図で​富士山の頂上を画面の枠から​ひょっこりと突き出されるという冒険を試みました。 右手には愛鷹山で冬枯れた草原で遊ぶ二羽の鶴によって、富士山の荘厳さを和らげる配慮を試みました。 西を指して街道を行くのは二人連れの女性です。荷を担いだ供の男が続きます。 煙草を一服ふかしながら先頭の女は男性の方を振り返り旅話でもしているかのようですね。 ​男性は挟箱を天秤棒に掛けており、左腰に差しているのは護身用の道中差です。 会話の雰囲気まで伝わるようですね。

15、吉原 左富士

15、吉原 左富士

元吉原から吉原へ向かう道中は、松並木がくねくねと続く田んぼ道でした。吉原宿の手前は左側に富士山が観れる「左富士」の名所として有名で、雪をかぶらない、夏の富士山をご覧いただけます。(ちなみに東海道でもう一か所、左手に富士山が見えるスポットがあります。​藤沢の南湖(現茅ヶ崎市)です。)かわいらしい3人の子供を乗せた馬が、ゆさゆさと進んでゆきます。中央と左の子供は、名物の左富士を眺め、右の子供は居眠りをしているようで頭ががっくりと垂れてしまいました(笑) 三人の子供たちを乗せる鞍を三宝荒神と呼びます。三宝荒神とは神様の名で、江戸時代にかまどの守り神として信仰されました。​その名を取り、馬の背に一人、左右にふたりを乗せるタイプの鞍をそう呼ぶようになったようです。

16、蒲原 夜之雪

16、蒲原 夜之雪

しんしんと降り積もる雪をご覧下さいませ。山も街道も宿場町も雪に覆われ静寂が世界を包み込みました。蒲原の気候は温暖で、実際は雪深い土地ではありませんでした。 それを広重は一面の雪景色に変え、宿場の名所や名物を描きこまずに、​忘れ難い一枚に仕上げたのです。雪灯りでぼぅっと浮かび上がった夜道を3人の人物画歩いています。​右は二人連れで、菅笠に合羽やみのを付けた男性たちの頭や背中には雪が真っ白に積もっており、視線はかわさない。寒さをこらえて長時間歩いてきたことを物語っています。

17、由井 薩埵嶺

17、由井 薩埵嶺

旅人たちが富士を望んでいる道は薩埵峠の頂近くで、​崖の背後からパッと眼前に富士が見える​感動的な場所です。​「薩埵嶺(サッタレイ)」とは普通、薩埵峠(サッタトウゲ)と呼ばれ、ここから東側に富士山を望む眺めは​絶景として知られました。切り立った崖の上に2人の旅人がおりますね。一歩間踏み間違えたら転げ落ちそうです。​絵を見る私たちをハラハラドキドキさせますね。小手をかざす男は顔を前に突き出し雄大な富士山の眺望を満喫しています。足元がくらくらと腰が引けてしまいました。一段上を、地元の杣人が薪を背負って歩いてゆきます。一説によりますとこの峠の道は明暦以降開かれたもので、それ以前は、崖下の波打ち際を通っていました。​その道には荒波が押し寄せ、波にさらわれて行方不明になることもあった危険な道で、「親知らず子知らず」と人々に​呼ばれていたそうです。

18、興津 興津川

18、興津 興津川

さぞや重たかろうと存じます…。 興津川の渡しを画面の中央にした広重の努力作。興津の名所といえば有名な清見寺(奈良時代に建立され、徳川家康が人質だった幼年の頃にご縁のあったお寺です。芭蕉の句碑、五百羅漢でも有名です。松林が描かれている遠景は​許奴美の浜です。由井宿を発って興津宿に入る手前には、興津川が流れています。冬は橋渡しですが通常は徒歩渡しでした。2人の旅人が駕籠と馬に乗って​川を越しています。​彼らは相撲の力士です。2人はともに柄袋をかぶせた刀を腰に差しているので​大名抱えの関取のようです。4人の駕籠かきが担ぐ駕籠かきが担ぐ駕籠に乗る力士を、馬に乗る力士が描かれています。駕籠に乗る力士が煙管を手にし、川面に目をやっています。​少々心配げな表情です。

19、江尻 三保遠望

19、江尻 三保遠望

今回の作品は、清水湊側から景色を見ています。 屋根から湊に停泊している船や入港してくる帆船を描き三保遠景を中景に駿河湾を行き来する船を遠景として描きました。​ 三保遠望は三保の松原が主役です。右手に黒々とした松原が見え左手奥には愛鷹山が姿を見せます。 白く光る海面、​広々とした空が心地よい風景です。あったかい一文字(てっぺんの配色)のお色。駿河らしい晴れ晴れとした海の景です。 実は広重は、本来あるべき画面右の伊豆半島を省きました。帆を下した船を二列に並べ、右肩上がりに船を描き、​手前から水平線に向け徐々に小さく​描くことで遠近を表しています。

20、府中 安倍川

20、府中 安倍川

府中宿の主役、それは徒歩渡しの様子です。丸子宿に至る手前の安部川の川越忍足による徒歩渡しの様子が​描かれています。先の興津の渡しでは関取二人を登場させましたが、こちれでは川に入っている三組を対比的に表現しています。川の深さは人足たちの胸まであり、決して楽な旅ではありませんでした。天候次第ではさぞや大変でいらしたことでしょう。駕籠の中の女性は左手でお座布団をしっかりとつかみ、輦台の揺れをこらえているようです。表情もちょっぴり不安げですよね。2組は男性です。左端は馬を引く2人の人足と荷物を支える馬子ですね。右の人足は歯を食いしばって力んでおり、馬が流れに脚を取られて思うように進みません。​後方は、みずから歩いて川を超える客と、それを導く人足の5人組です。徳川幕府の政策として、橋を架ける川と架けない川がありました。

21、鞠子 名物茶屋

21、鞠子 名物茶屋

軒下には「御ちやつけ」の看板が見えて参りました。さあ、ご飯に致しましょう。今図の舞台は「名ぶつとろろ汁」の立て​看板を出した茅葺屋根の茶店の店先です。2人連れの旅人が床几に腰かけ、正面向きの男は大きな口を開け、丸子名物のとろろ汁を食べています。お店の女性は小さな子供さんをおんぶしながらの接客です。軒先には焼き魚の串を突き刺した巻藁や干し柿が釣り下がっておりますね。さて今図の着想は、当時ブームであった十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に影響を受けたと思われています。弥次郎兵衛と喜多八が丸子でとろろ汁を注文する​シーンがあるのです。庭先には梅が花咲き、藁屋根の上には番の鳥が春ののどかさを増しました。丸子の名物とろろ汁は、​ヤマイモをすったものに​汁を合わせて麦飯だそうです。丸子のとろろ汁は​松尾芭蕉の俳句に詠まれました。(梅若菜 丸子の宿の とろろ汁)

22、岡部 宇津之山

22、岡部 宇津之山

蔦の細道の名で親しまれた宇津の谷峠は、「伊勢物語」の一話の舞台として有名です。​この一帯は「宇津の山」と言われていました。蔦の細道は画題として琳派の画家たちに好んで描かれ、​また宇津之山図の画題でも好まれて描かれました。坂の上には薪を担いだ杣人が姿を見せ、籠を担いだ二人の人物が後方から続きます。この蔦の細道のそばに本図の街道を開いたのは、​桃山時代の豊臣秀吉になります。 伊勢物語の一節より 「行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心ぼそく、すゞろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。かゝる道はいかでかいまする、といふを見れば見し人なりけり。 京に、その人の御もとにとて、ふみかきてつく。駿河なる宇津の山辺のうゝにも夢にも人に逢はぬなりけり」

23、藤枝 人馬継立

23、藤枝 人馬継立

品田宿から運ばれてきた荷物は、この藤枝宿の問屋場で人足と馬が交代するところで次の岡部宿まで運ばれました。「人馬継立」とは、宿駅ごとに人馬を替え、バケツリレーのように人や荷物を引き継いで送ってゆくことです。​藤枝の図は、問屋場と呼ばれた中継所にあたります。​荷物の引き継ぎを済ませ、たばこを吸ったり背中をふいているグループと、受け取った荷物を担いで出発しようとするグループに分かれておりますね。中央の2人が担ぐ長持の「保永堂」とかかれた札をご覧になれますでしょうか。手前の馬の腹掛けには、「竹内」と保永堂の主人竹内孫八の名があります。版元のコマーシャルです。黒羽織を着た役人の姿勢や手の動き。背中を丸め、人馬の数や賃金を記録する帳付が帳面片手に働いています。上体を乗り出す姿は職務に対する熱心さが伺えます。床についた右手には物腰の柔らかさと膝の上にきちんと置いた左手には真面目さが感じられます。 名脇役的な人物をしっかり描き、現実味を生み出すのは​広重が得意とするところでした。

24、嶋田 大井川駿岸

24、嶋田 大井川駿岸

目線をとても高い位置から俯瞰され、豆粒のような人々が113人も描かれておりますよ。よくこんなにも沢山の人数をと敬服致しました。 一人一人のポーズが小さいながらも​しっかりと描かれていますね。 大井川は徒歩渡しのみ許された川で東海道屈指の難所と言われていました。 今まさに、駿河側から遠江側に渡る大名行列を描いています。 人足たちは裸、輦台や肩車でお客様を渡す者、​駕籠やで持ちを担ぐ者、河原で一息いれる者など、いきいきとした描写をご覧いただけます。 人々が被る、又は手に持つ笠の色が青色で刷られている面白さ。河原の黄色に同化しないような​工夫なのでしょう。

26、日阪 佐夜ノ中山

26、日阪 佐夜ノ中山

今図は下りカーブの山道を描きました。​まるで滑り台を滑り落ちるような急な坂道ですよね。ここは佐夜ノ中山(サヨノナカヤマ)といい東海道の難所のひとつです。下りの最下部に近いところでは、5人の旅人が丸い石を囲んでいます。夜泣き石と言い日坂の名物でした。夜泣き石は「日坂」という土地を特定するだけでなく、画面構成上欠かせない存在でした。​それはなぜでしょう。この石の傍で殺された妊婦から赤子が生まれ、赤子を慕う妊婦さんの霊がこの石に乗り移り石が夜泣きするという「夜泣き石」の伝説がありました。夜泣き石の表面には「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。この図の石の左手に立つ紺の合羽の男は興味津々で石を見つめています。右手にいる子供さんを連れた母親は、石から少し離れ一礼をし頭を下げる様子です。子供は、そんな母の表情を​しげしげと見つめています。

25、金谷 大井川遠岸

25、金谷 大井川遠岸

前図の「大井川駿岸」に対し、「遠岸」遠江側の風景です。 大名行列の大井川越えを2回に分けたシリーズであり​島田宿の続きの場面と申し上げてみましょう。 大井川の川越しを再び描いています。 先ほどの大名行列の先頭集団の一群が大井川を渡り終えこえからかなたに見え隠れしている金谷宿に向かうシーンです。 遠景の山並み。山腹に見える集落は、これから大名行列が向かう金谷宿です。 輦台に乗せられた駕籠は「小田原」で見たものより大きく、おのずと輦台もそれに見合った大きさが必要です。20人近い人足が輦台を担いでいます。大輦台と呼ばれる輦台の中で最も大きいサイズです。 槍持や、大高欄輦台に籠を乗せたまま渡る大名が描かれているので、​大名行列の一群です。

28、袋井 出茶屋ノ図

28、袋井 出茶屋ノ図

榜示杭が見え袋井宿の入り口に参りました。刈入れの終わった田と秋晴れの空が見事ですね。茶色に乾いた道は、晴天が続き土が乾燥した状態なのでしょう。 「出茶屋」とは「出店の茶屋」のことで、道端に出している簡素な茶店をいいます。木陰や土盛を利用し葦簀張りの屋根で覆った出茶屋がありました。 木の枝から赤胴色やかんを吊るし、石を組み合わせた竈の火でお湯を沸かしているところはキャンプのような風情です。 ​やかんは使い込まれ底が真っ黒!やかんの下に火箸を入れ火加減を見ているのは店番の女性でしょう。​くすぶった煙がもくもくと立ち上がっておりますね。 右手では、駕籠かきが休んでいます。一人は煙草に火をつけていてもう一人は駕籠で休んでいます。左手では、飛脚が縁台に腰かけ、煙草で一服を。「日坂」の夜泣き石同様、​やかんを起点とした物語です。

27、掛川 ​秋葉山遠望

27、掛川 ​秋葉山遠望

掛川宿を抜けて西に行き二瀬川に架かる大池橋に至っています。凧あげは掛川周辺の名物です。こちらは東海道から分かれて秋葉山へ行く道があり、​火伏の神として信仰の篤い秋葉権現へ通じていました。旧国名の遠州凧と呼ばれ旧暦五月、端午の節句の頃に行われました。高く上がった凧が画面から突き出しちゃいました(笑)よほど風が強かったのか糸が切れて飛んで行く凧も​見受けられます。橋の上では、夫婦らしい二人連れの旅人が、向こうからくる老僧に頭を下げておりますね。老婆のほうは腰を折り曲げ、全身で敬意を表しています。若い僧はユーモラスな表情です。旅の途中の出会いと別れを​広重は「保永堂版」のテーマのひとつにしました。僧侶は袈裟を召しています。結袈裟とは、修験道の業者が用いる袈裟で、細長く折りたたんた布をひもで結んで開かないようにし、輪にしたものをいいます。後ろに続く弟子は笠を脱ぎ、口を開けて橋を登ってきました。​暑いのでしょうか、汗を拭くしぐさが見受けられます。

30、浜松 冬枯ノ図

30、浜松 冬枯ノ図

「袋井」と同じく、火を中心に憩う人々の図です。季節は冬で、​田は刈入れが済み、空に広がった藍色が寒々しく見えます。火の温かさが人々の身にしみたことでしょう。大きな木の左側では、仕事仲間らしき4人の男が火を囲んでいます。木の右側は彼らと無関係の人です。合羽を着た男性は、通りすがりといった風情でしょうか。赤子を背負った女性は熊手で枯葉を集めているのでしょう。無縁な人々が寄り添いあう​ぬくもりのある光景です。画面右手に、田の中に松がまばらに生えています。「ざざんざの松」と呼ばれた浜松の名所です。田んぼの中にある30余本の松のことで、かつて将軍足利義教が富士見に向かう途中、この松の下で酒宴を張り、「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで、以来この松を「ざざんざの松」と言われたそうです。

29、見附 天竜川図

29、見附 天竜川図

今図は天童川の舟渡しの情景を描いています。天童川は通常、二筋の青い川面にはさまれ、川の瀬が中州でふたつに分かれ大天童、小天童と呼ばれました。「見附」は川越しの様子です。安倍川や大井川の徒歩渡しと異なり​天竜川は舟渡でした。(豪雨などの時は、中須が沈み岸から岸へ一気に船で渡れることが​ありました。)図の手前が小天竜で、その先が大天竜です。​川船は舳先が高く上がってそこが平らな高瀬舟と呼ばれ、25人位は乗れたそうです。中ほどには大名行列の一行が見えますね。​彼らを渡し終え、手前の船頭は一息ついているのでしょう。背景は森で墨の濃淡によって、川霧に包まれた状態と奥行きを感じます。広重はこの図で​三段階の遠近法を行いました。

32、荒井 ​渡船ノ図

32、荒井 ​渡船ノ図

舞坂宿から荒井宿への今切の渡しを描いています。穏やかな「今切」の風景です。二艘の船が舞坂から荒井に向かって​進んでゆきます。画面中央を進むのは大名の御座船で、幔幕を張って毛槍を立てています。​対岸が厳重な取り締まりで有名な荒井の関所です。続く船は、中間(ちゅうげん)と呼ばれるお供のものを乗せた船です。中間たちのくつろいださまがユーモラスに描き出されています。丸くなって居眠りするもの。首をがっくりと垂れて眠るもの。左手を突き上げ「うぁ~」と大きなあくびを​する者もおりますね。舞坂から荒井まで海路1里(約四キロ)の工程のうち、舞坂寄りの半里には波除杭や塩除堤が築かれて遠州灘の潮流を受けないように工夫されていましたが、​荒井よりの半里にはそうした施設はありませんでした。対岸の荒井は、厳しい取り締まりで知られており緊張感が高まる中、この瞬間のリラックスした雰囲気が​場を和ませてくれます。

31、舞坂 今切真景

31、舞坂 今切真景

浜名湖と遠州灘を結ぶ水路には「今切」の名があります。かつて浜名湖と遠州灘はつながっていませんでおりませんでしたが、室町時代の大地震によって境目の陸地が決壊し​現在の姿になりました。東岸の舞坂と西岸の新井は渡し船で結ばれ​「今切の渡し」と呼ばれました。 江戸幕府は遠州灘の荒波から渡し舟を​守るために、波除杭や潮除堤を築きました。 真っ白な富士山が右奥に見え、西側から舞坂方面を望む風景と想定したのでしょう。とがった山が画面中央に見えます。「保永堂版」以降の「舞坂」にも広重はこの山を描きました。弧状に山鹿浮かぶこの風景は「東海道名所図会」を参考に作り上げたとの説があり、​今切の実景とは異なります。

33、白須賀 汐見阪図

33、白須賀 汐見阪図

白須賀宿は元々海沿いにありましたが、大津波で壊滅し高台へ移されました。白須賀宿に向かう途中、遠州灘の絶景で知られた汐見坂があります。 汐見坂を通る大名行列の一行の山中の景と一望出来る遠州灘の海景。画面いっぱいにひかれた逆「へ」の字状にカーブする弧線です。弧線の上端を結ぶように水平線を引くと、水をたたえた海面が出来上がります。 ​漁船と海面の風景です。 朱色の挟箱には定紋が表されていますが、これは広重の「広」に由来します。 カタカナの「ヒ」と「ロ」を組み合わせひし形にした図形を広重のトレードマークとしました。​ 作品の中に遊び心満載です。

34、二川 猿ケ馬場

34、二川 猿ケ馬場

副題の猿ケ馬場は、白須賀の宿を西に出てすぐのところにありました。ここはいまだ遠江国であって、二川宿のある三川国との境はもう少しだけ西に位置しておりました。この猿ケ馬場は「東海道名所図会」によると小松が多く生えている景勝の地で​柏餅を名物とする茶店があったようです。海や空が全く見えない風景。​松の生えた丘が草原のように広がる​大胆な構図ですね。三味線を手にしたり背負ったりしている三人は、瞽女と呼ばれた盲目の芸人さんです。 瞽女は諸国を廻り、家々の門口で芸を披露しては生計を立てていました。瞽女は降雪地帯の職業というイメージがあり新潟県では現在もその伝統が受け継がれています。​江戸時代は全国で活躍していました。初版は福祉政策の一環として瞽女を​保護し、領内を巡歴させていました。「名物かしは餅」の看板が見えて参りました。こちらは柏餅で有名でした。店先に、旅人らしき男の姿が見えます。瞽女たちもここで一服するのでしょうか。広重は、この猿ケ馬場の柏餅をお出しする茶店がお気に入りなのかしら?行書、隷書の東海道シリーズでも​二川といえばここを描いています。

35、吉田 豊川橋

35、吉田 豊川橋

豊川に架かる吉田橋を遠望する図です。橋の上には、大名行列、​手前は吉田城です。櫓を右に寄せ、残りの大半に​川面と空を描きました。 この右端近景に屋根の上で働く職人を配した構図は、​葛飾北斎の「富嶽三十六景」のシリーズに​影響を受けたと思われます。櫓の屋根の上で働く二人の左官は別々の方向を向き、もくもくと左官仕事をしています。足場に登って、小手をかざす職人も小さく描かれ、まるで大名行列を​眺めているかのようです。 巨大な橋と大開放の風景の豊川に架かった豊橋は吉田橋ともいわれ、長さが約百二十間(訳二一六メートル)ありました。 この橋の近くに吉田湊がありここから伊勢の江尻へ向けて伊勢参りの旅人を運ぶ船が出ていました。伊勢湾交通の要所であり、橋向こうにも停泊中の廻船の帆柱が描かれています。

36、御油 旅人留女

36、御油 旅人留女

「吉田」の静寂な世界観から一転して、「動」へ転じました。夕暮れ時のにぎやかな宿場の風景です。街道の両側には旅籠が軒を並べ、客引きの留女が路上で旅人を捕まえています。​顔の見える男性はぎゅうぎゅうと荷物を引っ張られ苦しそう。留女たちは御油宿を通る旅人が次の赤阪宿に行かないよう​力づくで確保しようとしています。右を行く若い女性は首が締まりかけて悶絶する男性を尻目に、口元に笑みを浮かべて通り過ぎてゆきます。右手の旅籠では泊り客が上がり框に腰かけ足を洗おうとしています。老婆がたらいに水を汲んで持ってきました。もう一人の女性は退屈そうな表情を​浮かべています。 右上には講中札が掛かっています。講のしるしとして、それぞれの講の名前を書いてかけたものです。よくよくご覧下さいませ。全てがコマーシャル!右端は「保永堂版」の総点数を表す「五拾五番」、次は「東海道続画」さらに、「彫工治郎兵ヱ」「摺師平兵衛」​「一立斎図」と続きます。彫師や摺師の名が知れる貴重な情報です。​後方の円い看板には「竹之内板」これは保永堂の版元名です。

37、赤阪 旅舎招婦ノ図

37、赤阪 旅舎招婦ノ図

当時の旅人たちが、旅籠屋のなかでどのようにくつろいでいたかを示す「保永堂版」で唯一の室内描写です。 舞台はお夕飯時の旅籠になり、中庭にはソテツが植えられています。 広重はソテツを境に、左右の部屋で繰り広げられる世界観を対比し、​旅籠のリアリティを表現しました。 左の部屋では、男性客が寝転がり、旅籠の女性が膳を運んできたところです。 坊主頭の按摩もやってきました。 廊下にいる肩肌脱ぎの男性は、​お夕飯前にひと風呂浴びたという風情。 右の部屋に視線を移すと、女性たちが鏡に向かってお化粧しています。

38、藤川 棒鼻ノ図

38、藤川 棒鼻ノ図

舞台は棒鼻と呼ばれる宿外れで榜示杭と高札が立っています。この行列では黒と茶の馬が御幣を立てているので、このご一行は幕府から朝廷にこの馬を献上する「八朔御馬献上」の行列との解釈です。出迎える羽織袴姿の二人は宿の役人で、旅の男性も笠を脱ぎ、役人たちに従っています。 左端でじゃれあって遊ぶ3匹の子犬も、重要な役割を演じています。 人間が醸し出す緊張感を犬たちを登場させることでほっこり感を演出しているのです。​お役人の一人が犬の方を向き微笑みました。まあるい小さな犬の形は、丸山応挙以来描かれてきた丸山四条派の典型的であり、この図でも、広重は円山四条派の描法を学んでいることが​伝わります。

40、池鯉鮒 首夏馬市

40、池鯉鮒 首夏馬市

空に施されたピンクの一文字。 地平線上の青のぼかし、草原を摺る黄緑と青緑の使い分けは益々清涼感を感じさせます。「池鯉鮒」とはユニークな地名ですが、現在は「知立」と表記されます。陰暦の4月25日から5月5日にかけて、池鯉鮒では大規模な馬市が開かれました。この図の主役は、​市で取引される馬たちです。解放感に富む草原を吹き抜ける風の表現。風は左から吹き草はなびいています。一本の大きな松が見えますが、この松の周辺で馬の値段を決めたことから、「談合松」と呼ばれていました。 「からころも きつつなれにし つましあらば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」 ​在原業平 かきつばたの五文字を入れて和歌を詠んだこの名所は、馬市の東北にありました。

39、岡崎 矢作之図

39、岡崎 矢作之図

矢作川の西岸から対岸の岡崎城を望む構図です。 ここに架かる矢作橋は、​東海道随一の長い橋として知られていました。 「東海道名所図会」では「長サ二百八間、高欄頭巾(欄干の柱頭につける宝珠形の飾り、擬宝珠ともいう)、金物、橋杭七十柱、​東海第一の長橋なり」とあります。橋の上には江戸を目指す大名行列を​描きました。 江戸時代には、岡崎は徳川家康の生誕地として重視され、幕府とゆかりの深い譜代大名が藩主を務めました。橋と城、そして大名行列という取り合わせは「東海道名所図会」のほか、葛飾北斎の作品にも同様の趣向が​見受けられます。

41、鳴海 名物有松絞

41、鳴海 名物有松絞

有松絞とは、名古屋の有松地区の名物で​木綿の絞り染めです。 絹や木綿を藍・紅・紫などで絞った布地は​浴衣や手ぬぐいなどに好んで使われました。 街道の左側には2軒の有松絞の店が​並んでいます。 女性たちの品のある姿が丁寧に描写され、美人画との親近感が感じられます。 街道は坂になっており、手前の女性の2人連れが歩き、その後ろには女性の旅人を乗せた籠、少し離れて女性の旅人を乗せた馬と馬子、​そして、お供の男性です。 買い物日和の有松絞の店先の様子を、生き生きと描き出しました。 暖簾には「ヒロ」印と​「竹内」「新板」の文字が白く染め抜かれています。「ヒロ」は絵師の広重を、「竹内」は版元の竹内孫八を、「新板」は新刊の意味で​「東海道シリーズ新発売!」といったコマーシャル的な感じでしょう。

42、宮 熱田神宮

42、宮 熱田神宮

宮とは熱田神宮のことで、日本武尊が使った草薙剣をまつる宮として​知られています。五月五日、この地域では「端午の走り馬」又は「端午馬の塔」という行事が行われていました。近郷から馬を引いて走らせ、​熱田神宮に奉納するものです。広重は、熱田神宮の門前町である宮宿を描くにあたり、​この行事を題材にしました。手前では、お揃いの有松絞りの袢纏を着た男たちが、俄馬(にわかうま)と呼ばれる裸馬と一緒に駆けてゆきます。馬は背に荒薦を乗せ、跡綱という長い綱を結び付けら跡綱をつかむ男たちは、掛け声をかけながら馬に続いてゆきます。彼らの袢纏には赤い模様が染められていますが、後方のグループの袢纏は青い模様です。赤と青の対比は、二組のグループが競い合う様を象徴しています。​スピード感を強調する名場面です。

43、桑名 七里渡口

43、桑名 七里渡口

伊勢湾を行く船の旅です。 宮から桑名までの海路は、「七里の渡し」と呼ばれました。 ぎっしりと乗せた二艘の渡し船です。 今まさに船着き場が近づき​帆を降ろしたところです。船の背後に桑名城が見えることから、​桑名側の船着場、右には桑名城という重厚なモティーフ。 左には、のびやかな海景を描きました。 三方を海に囲まれて扇形につくられている為、扇状とも呼ばれた桑名城が見えると、まもなく渡し口のある揖斐川河口が近くなります。そこで渡し舟は帆を下ろし、​櫓を漕いで渡し口まで運びました。 人物は限りなく小さく描き、手前の船で船頭が鉢巻を締め直すさまは​海の旅らしい雰囲気です。

44、四日市 三重川

44、四日市 三重川

副題に「三重川」とあり帆柱が立っていることから、描かれた地は三重川の河口付近と特定されます。副題の三重川に架かる橋は、数枚の板を置いただけの粗末なもので三瀧川橋といいました。どちらでもよく見かけそうな葦の生い茂る川のほとりです。登場人物が、お互いに背を向けて歩みさってゆく運動感。すれ違う旅模様の一期一会を演出しています。粗末な橋の上では、合羽の男性が右手に歩んで行きます。画面左側に屋根や帆柱が見えています。​四日市湊です。左斜め下に延びる道を、男性が風で飛ばされた笠を置きかけ、慌て顔でこけちゃいそうになりながら笠を追いかけています。​開いた口、伸びた右手、笠を飛ばされた本人は必死です。広重は「四日市」の舞台で風を表現しました。

45、石薬師 石薬師寺

45、石薬師 石薬師寺

石薬師寺は現代に続く古いお寺で、弘法大師空海作と伝える石造の薬師如来像を本尊としています。田んぼ道を辿り山門が見えて参りました。この寺の総研は聖武天皇の神亀年間(七二四~七二九)であり、本尊は菊面石に空海が線刻した薬師如来です。馬子がお客様を乗せた馬を引いて門前へたどり着いたところです。刈り入れの済んだ田が広がり、背の低い緑の背の低い樹木はやわらかに紅葉しています。幾重にも連なる山々を描くことで秋晴れの空の透明感を​表現しました。宝永六年(一七〇九)九月十四日、四日市浜田村のある人が、来る一七日の夜、豪雨によって宿場の人間が死んでしまうところを雀たちが身代わりになって救ってくれるという夢をみました。事実、一七日の豪雨で竹林の雀数千羽が死んだそうです。村人は、この雀のための追悼の供養をしたという物語が残っています。

46、庄野 白雨

46、庄野 白雨

庄野の空が一転、にわかに曇り​雨が降り出しました。保永堂を代表する名作が、この夕立を描いた「白雨」になります。天井の墨色一文字が、突然の天気の崩れを物語っています。背景の竹やぶはざわざわと揺らめき音を立てているかのようです。墨の濃淡の変化による重層的な奥行き表現には、山水画の水墨表現への関心が伺えます。雨の​斜線を多用し動きを出しました。坂からのぞくのは民家の屋根、風になぎ倒される林のシルエットを二重に重ね、強い風を印象づけています。坂を下る2人のうち、鍬を肩に担ぐ近所の農夫。駕籠に乗るのは通りすがりの旅人でしょう。農夫が大股で駆けてゆくのに対し番傘を指す男は向かい風にあおられ容易に足を運べません。すぼめた傘と小さな歩幅が、風の強さを物語っています。傘の「竹のうち」「五十三次」は​さりげないコマーシャルです。

47 亀山

47 亀山

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48 関

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49 阪之下

49 阪之下

51. 水口 名物干瓢

50 土山

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51 水口

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52 石部

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53 草津

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54.大津

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55 京師

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歌川広重とは​
Hirosige Utagawa

歌川広重は江戸時代の浮世絵師。

完成9(1797)年、定火消同心・安藤源左衛門の子として生まれました。文化6(1809)年に両親を亡くし、八代洲河岸の定火消屋敷の家督を継ぎます。元来絵を得意とした広重は、その2年後、当時人気を博した歌川豊広に師事。抒情性のある風景版画を手掛けた豊広の画風を学び、文化9(1812)年に歌川広重の名を受けることになります。​歌川派としては約20年鳴かず飛ばずの時を経て、滑稽本「東海道中膝栗毛」の大ヒットやお伊勢参り・寺を詣でる旅が流行り、天保4(1833)年に江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」はそのブームに乗り一躍脚光を浴びたのです。

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